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【42】黒人初メジャー選手の壮絶な生涯

まだ人種差別が平然と行われていた1950年以前のアメリカに、『ジャッキー・ロビンソン』という名の黒人選手がいた。背番号は「42」番。現在のメジャーリーグ(MLB)では、1名の例外を除き、誰も着用していない伝説の「永久欠番」である。

彼はMLBで最も偉大な選手の内の一人と言われており、誰もが彼の背番号42番を着用することを望んでいる。

1950年以前のMLBでは、黒人に対する人種差別が盛んであった。その為、黒人選手は「ニグロリーグ」という黒人専用のリーグでプレーをせざる得なかった。

だがジャッキー・ロビンソンは暗黙の了解を破り、1947年の4月15日にドジャースの一員としてMLBデビューする。当然、多くの白人はこれを良く思わず、ジャッキー・ロビンソンに対する執拗な攻撃が始まった。黒人選手が「でしゃばる」ことを良く思わない投手からは、明らかに頭部を狙ったボールが投げられたという。

相手チームの監督・選手はおろか、自チームの監督・選手からも人間扱いされない日々が続いた。ジャッキーのような黒人選手とは一緒にプレイ出来ないと、数人の白人選手はチームを去っていった。

だがジャッキー・ロビンソンが差別に対して、暴力で返したことはただの一度もなかった。度重なる差別を受けても、ジャッキーは常に紳士的な態度をとり、自身のプレーで周囲を黙らせた。

ジャッキーロビンソンは、デビュー後わずか2試合目にして5安打、1本塁打を達成する。

どれだけ非道い言葉で罵られようとも、身体的な攻撃を喰らおうとも、彼はその挑発に乗ることは一切無かった。
そうしてジャッキーの「紳士的な人柄」と「野球の実力」は徐々に周囲にも認められていった。
最初はチームメイトが彼を仲間として認めることから始まり、その後、チーム全員がロビンソンを守るようにった。
人種差別的な言葉でののしる観客や、ロビンソン相手にラフプレーを仕掛けてくる選手に対して、チーム全体でロビンソンを擁護した。

当時の監督であるレオ・ドローチャーはこんな言葉を残している。

”肌が黄色でも黒でも、シマウマみたいなしま模様でも構わない。監督は俺で、俺はチームのためになる選手を起用する。従えない奴は去ってくれ”

リーグ終了後、ジャッキー・ロビンソンは両リーグからわずか2名のみが選出される「新人王」のタイトルを獲得する。またジャッキーが加わった事により、チーム自体もナショナルリーグで優勝を果たした。

次第にジャッキーに対する差別は減っていった。ジャッキーの活躍を皮切りに、黒人選手の登用が進み、メジャーリーグで活躍する黒人選手の数が激増したのは言うまでもない。

ジャッキー・ロビンソンが自らの手でその道を切り開いたのだ。
彼の死後も、その功績は脈脈と語り継がれている。

彼の背番号「42」番は永久欠番とされて、その番号を汚すことは決して許されない。だが彼がデビューした4月15日だけは「ジャッキー・ロビンソン・デー」として誰もがその番号を着用することが許されている。

またプロゴルファーのタイガー・ウッズも「ジャッキー(ロビンソン)のように、多くのマイノリティー(少数民族)に勇気を与えたい」と、スポーツにおける黒人選手躍進の原動ともなった“大先輩”に対して敬意を表している。

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